高齢者への「香りのアート」を使ったケアについて

高齢者への「香りのアート」を使ったケアについて
近年、高齢者の認知機能向上や健康維持のために、香りが大きな注目を浴びつつあることをご存じでしょうか。「におい」や「香りのアート」を利用した高齢者ケアについて、効果や実例を紹介します。
岩﨑 陽子 准教授
嵯峨美術短期大学 美術学科
美学会、日本味と匂い学会、意匠学会 その他
一九七三年生まれ。大阪大学文学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、嵯峨美術短期大学准教授。専門はフランス美学・哲学。味と匂い研究会、Perfume Art Project代表。香りのアートのプロジェクトや展覧会を国内外で多数キュレーション。
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なぜ、香りが注目されているのか

2018年東京、とある嗅覚関係の学会の最中に会場から一斉に大きなどよめきが起こった。スウェーデンの研究者が「高齢者がにおいを感じなくなると、死亡率が高まる」という主旨の発表を行った時のことである。嗅覚喪失と死亡率の関わりが明白に視覚化されたグラフを見た瞬間、参加者全員がショックのあまり吐息をついたのであった。私もその発表に衝撃を受け、その後ことあるごとに、自分の親を含めて高齢者に「においを感じにくいことはあるか」と尋ねるようにしてきた。すると概ね多くの高齢者は「正常ににおいを感じている」と返答する。

しかしながら、実際に何かのにおいを一緒に嗅いだら、確実ににおいがしているにもかかわらず「においがしない」と答える高齢の人(特に男性)が多い。たしかに、多かれ少なかれ嗅覚能力の低下は高齢者につきものであると考えられる。視力や聴力は健康診断で計測されることも多く、変化に気づきやすいが、においを感じる能力はほとんど計測される機会がないため、嗅覚能力が低下しても気づきにくい。

金沢医科大学耳鼻咽喉科の三輪高喜先生が書かれた本のタイトルは『カレーの匂いがわからなくなったら読む本』(主婦の友社、2019年)で、カレーのにおいを嗅覚障害のバロメーターとし、これがわからなくなったら嗅覚をトレーニングする必要性を説いている。「まさかカレーのにおいがわからないはずはないだろう」と思うかもしれないが、案外身近にそのような人がいる可能性がある。人はカレーを「見る」と脳内で勝手にカレーのにおいを想像するので、カレーを見せずに「なにかにおいがするか、何のにおいか」と尋ねてみるとよい。

最近、嗅覚と認知症の関係もしばしば取り上げられる。嗅覚喪失が認知症の初期段階の症状の一つとして知られるようになり、嗅覚を鍛えることで認知機能の維持または向上を目指すという研究が増えている。におい産業関係のイベントに出席すると「認知症を予防する香りのペンダント」、「認知機能を高めるアロマ」など、様々な認知症と関わる香りのグッズや機器が必ず出展されている。これらは高齢者の「香りで認知症を予防したい」というニーズを反映している。現在、脳トレや運動に並び、高齢者の認知機能向上や健康維持のために、香りが大きな注目を浴びつつある。

なぜ、高齢者ケアに「香りのアート」なのか

香りを使って嗅覚を訓練するにはどのようにすればよいか。嗅覚の生理学的な機能としては、空気中に漂っているにおい分子を、鼻の奥の上部にある嗅覚受容体がとらえ、これが脳神経を通じて脳に信号を送ると「におい」として感じている。人間の場合、約400種の嗅覚受容体で40万種類ものにおい分子を嗅ぎ分けながら生活している。(一般に鼻が良いと思われている犬は嗅覚受容体を811種持ち、馬が1066種、実は動物の中で一番鼻がよいゾウは1948種持つ。)多種多様なにおいを嗅ぎ分けるメカニズムをもつ嗅覚能力が、高齢化のために低下してきた場合、訓練によって機能は回復するのだろうか。

先に引用した三輪先生にお聞きすると、においの刺激を与えることによって、一度失われた嗅神経細胞を再生することは可能だとのことである。病院の患者さんに数種類のアロマなどの異なるにおいを用意し、毎日鼻の下に持ってきて嗅ぐというトレーニングを実施してもらっていると、数か月で嗅覚が改善することが多い。(最近では高齢者だけではなく、新型コロナウィルス感染症によって嗅覚を喪失した人々にもこの治療をして成果をあげておられる。)

ヨーロッパにも、バラ、ユーカリ、レモン、丁子の4種のにおいを朝晩2回10秒ずつ嗅ぐのを四か月続けると約25%、八か月だと約40%の人に嗅覚の改善が見られたとの研究結果がある。柑橘系などのある種の香りそのものにも、認知機能改善の効力などが見られるという先行研究はあるが、ここでのトレーニングでは、香りの種類や素材(天然物か合成化合物の香料であるかどうか)そのものよりも、「においを嗅ぐ」という行為が重要であるとされる。

しかしこのトレーニング方法の問題は退屈で飽きやすいことである。特に嗅覚能力が既に低下している場合、ほとんどにおいを感じられないにもかかわらず、においを日に2回、数か月にわたって嗅ぎ続けることは苦痛であろう。においは目に見えず、嗅覚能力も自分で数値化できないので、毎日トレーニングを続けるモチベーションを維持するのは並大抵のことではない。また、ただ単ににおいを嗅ぐだけではなく、バラのにおいの場合は、バラのイメージを意識しながら嗅ぐ方が効果的であるとされる。目に見えないにおいを嗅ぎながら、そこにはない物体をイメージするというのは、これまた一層大変なことである。

しかし「香りのアート」を使えば、高齢者の嗅覚トレーニングのモチベーションアップを図り、楽しみながら嗅覚トレーニングができる。香りのアートはあまり世の中に知られていないが、ここ10年前後で世界的に少しずつ増えている、香りやにおいを作品の主題や素材とした芸術のことである。香りのアートにはゲームも含まれる。香りは記憶と強く結びついているとも言われており、嗅覚ゲームによって過去の記憶を呼び覚まし、香りについてのイメージを鮮明に思い浮かべられるなら、嗅覚トレーニングにおいて重要とされる「においを嗅ぐこと」と「そのイメージを思い浮かべること」が同時に可能になる。

嗅覚訓練ゲーム

このゲーム開発は日本をはじめとし、スウェーデン、イギリスなどの研究者の共同で、医学、看護学、心理学、芸術学などの学際的なメンバーでなされた。またゲーム制作はゲーム会社、香料会社、デザイナーや音楽関係者などの様々な方面からの協力を得ながら行われた。ゲームは通常、子供や若者が中心となって楽しむものであると思われているが、高齢者の間でもゲームは「脳トレ」の一種として少しずつ広がり始めている。

しかしながら高齢者の方々に聞き取りをすると、「シューティングバトル系の若者向けのゲームが多い」「色や音がきつく、速度が速くてしんどい」「もっとほっこりとするゲームがしたい」という不満を聞いた。スウェーデンの研究チームはすでに先行する数々の取り組みによって嗅覚ゲームに関する研究を積み重ねており、子どもの食育やソムリエの育成を目的として嗅覚ゲームをつくり出していた。よってこうした技術や成果を利用しつつ、高齢者のための嗅覚訓練ゲームを開発することにした。

高齢者向けの嗅覚ゲーム開発においてポイントとした点は、

①興奮や刺激によるゲーミフィケーションではなく、「なつかしさ」「あたたかみ」により、何度もしたくなるゲームであること、ゲームのテーマ、色調、フォントの大きさなどの操作性を高齢者向けにすること。

②アナログではなく、デジタルによるゲームの仕様。高齢者にはアナログゲームの方が良いと考える場合もあるが、これからのデジタル時代の高齢者に大切なのは、気軽な人とのつながり、ゲーム成果の簡易な管理集計機能、パソコンでできる手軽さである。

コミュニケーション・ツールとしての機能重視。デジタル空間での対話、交流、時空を超えたつながりを生み出す。(これはコロナ禍において図らずも社会的に大きく前進した部分でもある。)

こうして完成した嗅覚ゲームが「あの頃へもう一度~小学生編」である。現在は日本語版と英語版の二種があるが、今後もシリーズ化していき、日本と海外のそれぞれのバージョンを用意して展開していく予定である。ゲーム自体はデジタルで作成されており、自宅のパソコン上でアプリをダウンロードして操作できるが、においを嗅ぐための香りのボックスが付属している。使用する香料は小学校生活に関わるなつかしい香りである。ゲームでは、小学校をイメージした5つの場面が1セットになっており、1週間の平日の5日間に毎日訓練できる。

嗅覚トレーニングにおいて大切なのは、単に鼻の下で匂い当てクイズをするだけではなく、情景の中のコンテクストを感じながら、その匂いの思い出を感情と共に呼びさますことである。ゲームだからこそ、その時の風景、季節、気分が、視覚と聴覚そして嗅覚といった複合的な刺激と、記憶とつながるストーリーによって立ち上がる。また実際のにおいから想起される思い出だけではなく、思い出の中の想像の香りを喚起することもできる。現在、このゲームの効果を測定しており、様々な調査項目で高齢者によるゲームの使用前後の数値を比較しており、近日中に結果が明らかになる。

 

嗅覚ゲーム「あの頃へもう一度~小学生編」(最終閲覧日:2024年2月26日)

未来にむけて

このようなゲームが身近になくても、香りに普段から気を配ることで嗅覚能力の向上、ひいては認知能力強化も見込めるかもしれない。そもそも嗅覚への注意は五感の中でかなり低い。日常生活の中で「コーヒーの良いにおい」「沈丁花のにおいがしてきたな、春だ」「今、部屋の中にはどんなにおいが漂っているだろうか」と、少しでもにおいを意識してみることが大切である。

今後、高齢者の香りを使ったケアはどのような方向性へと至るのか。まず香り単体の効果の解明は今後も進むと考えられる。香りは人間身体に少なからず影響を及ぼすことから、それぞれの疾患やニーズに特化した香りの効能は今後も注目されるであろう。他方で嗅細胞刺激だけではない嗅覚のあり方も検討されるべきである。香りを嗅ぐということは、そこにある「状況」を一緒に吸い込んでいることである。バラのにおいを単体として嗅ぐよりも、かつて庭先に初夏の日差しの中で咲いていたバラを想起しながら嗅げば、バラとしての香りもその時に動いた感情も、両者が相乗効果をもって現れる。こうした状況の創設においてアートが重要な役割を果たしている。今回はデジタルによる嗅覚ゲームを開発したが、より状況に没入する環境を生み出すような、例えばVRによる嗅覚訓練の可能性も未来に向けて考えていきたい。

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