沖縄キリスト教学院大学 人文学部 英語コミュニケーション学科
沖縄キリスト教学院大学大学院 異文化コミュニ
保健学修士(琉球大学)、博士(医学)琉球大学、博士(文学)名古屋大学
日本健康学会(旧日本民族衛生学会)・日本公衆衛生学会・
日本学術振興会特別研究員DC(琉球大学)第1号、
【客員研究員歴】国立精神・神経センター精神保健研究所
【非常勤講師歴】山口大学教養部・大分医科大学・香川医科大学・
【その他講義歴】東北大学大学院教育学研究科・
【チューター指導歴】
かつてハジチ(針突。かつて沖縄の女性に見られた習俗)をしていたオバアたちがいた時代、1980年代であれば、センテナリアン(百寿者、100歳以上の人を指す)だった人達。当時、沖縄本島内の特養(特別養護老人ホーム)に行って、「チムサーサー(心配で心が落ち着かない状態を指す)になるようなオバアいますか」と尋ね歩けば、「ああ、いるよ。」「いたけど、もう今はいないねえ。」(1人いたような施設ではもうゼロに。)、こういう回答が返って来た。
ある時期になると、顔が火照ったり熱発したり、一過性の徘徊行動を見せたりするオバアの存在のことを指す。当時、情報をキャッチした者は40近い施設を全て路線バス利用で訪問、こうしたオバアの存在を確認、症状を聞き取ると精神科疾患の人が1人もいなく、発症時期を特定してゆくと旧暦1日・15日を前にしていることが判ってくる。
原因には結婚してから家の仏壇を拝んでいたヒヌカン(火の神。台所に祭祀場がある。主体は、そこの主婦)ごとが絶たれたこと、この共通点を押さえた。一家の安全や健康、繁栄を祈ってきた儀礼、これは人生の中で体得し続いて来たものであると考えられるが、それが施設入所を機に絶たれたことで起こる不協和音なのだ。
研究結果を伝えると、施設の対応策として、中にはそういうオバアを家に連れ帰ったり、施設内にヒヌカン場所を作る施設も出た。また当時、本島北部の長寿地域でオバア限定で生活実態調査を行っていると、朝起きてから祖先にお茶をあげるウチャトー(お湯を沸かしお茶を入れて仏壇で祖先を祀る行為)で始まり、一人暮らしであっても誰かがやって来てのユンタク(会話)があったり常に誰かとの関わりがあるとか、そこでは、しまくとぅば(方言)の継承、これも体得されたものにつながっているはずと感じた。
沖縄(奄美群島も含めてもよいと考える)がそこでは、「宗教は何か?」に対して「ない」と即答されればそれがまさしく祖先崇拝の証。つまり、宗教はあって、祖先崇拝を基調としたう~と~と(小さい時から親に言われる神仏に手を合わせ拝む時に出す言葉)系の地域の死生観に基づいた信仰、これを有しているはず。
さて、2000年に入ったあたりから地元の大学病院、外来で見る光景に特筆出来るものがないか見ていて、かれこれ20年以上になる。この間、10年以上前のことになるが、1回だけこんなやりとりを見た。「ぬぅでぃパラパラ(筆者なりの解釈があるがあえて訳さない)しないで待っててね。」、女性看護師が高齢者夫婦、オジイに向けそう語る。付き添いのオバアは隣で見ている。もう、この看護師も定年退職されているはず。
方言にしても、共通的なものと一部地域で使われているものがあるはず。「この年輩看護師は眼の前の高齢者夫婦(患者)と同郷なんだろうか」、ふと考えてしまった。瞬時的に2人を安堵させ、何か包む力がここに発揮されていると感じた。なお、この看護師が語ったしまくとぅば(島言葉。沖縄)の意味を直訳出来た人は未だいない。
2020年代、与論島ではもう既に島の介護職や看護師の大半はシマフトゥバ(島言葉。与論)が話せないわからない人の割合が高くなっていると言われる。もちろん、島外出身者(旅んちゅ)の職員なら言わずもがなであるが、島んちゅ(島人)の若者がまず島言葉を使えなくなっているらしい。介護される世代はまだまだ島言葉の方が意思疎通できる世代。
良い例が、島外の病院へ入院した超高齢者、言葉が通じないのでますます認知が進む。島に連れ帰って特養に入所。すると、言葉が通じたらあっという間に介護度も2ランク下がって、老健(老人保健施設)に転院した例をもある。よって、言葉は大事。職員自体も島言葉が喋れないとしても、共感的に高齢者の話を聴くことができ、ラポール形成(信頼関係を築くこと)に役立つことは大事なのであろう。
医療と死生観、この2つが医療教育の場で着目され始めたのは1980年代。その後、今では医学生の中でも定着、すっかりその重要性が認識されてきた。
2010年代、医学生の関心はこの死生観に。医師になった後体験するであろう患者の死に直面した時の対応含めた研究のチューター指導(医学科衛生学公衆衛生学教室から依頼の4年次生グループの実習指導)を持った経緯がある。しかし、死生観について、さらなる浸透が介護現場など福祉職で必要でないかと思っていた矢先、冒頭でみたように地域の人々の持つ死生観そのものは薄まり、それに輪をかけ、しまくとぅば/シマフトゥバも薄まっている。
埋葬が火葬になり、奉公人(棺桶を担ぐ人)4人、池堀人(墓を掘る人)3人、この男性の役割が不要になった。火葬になっても、まだ、「終の場は自宅の畳の上。」、与論島ではその畳の上そこに魂があって、そこから始まる33年忌までが大事な意味を持っていることなどから、自宅死亡の希求はある。「あなたはどんな死生観を持っていますか。」、こう聞かれることはまずないはずだが、目の前に相対する人が安心出来る死に方はある。
最後に、死生観とは時として地域の葬送儀礼などを伴った伝統的な慣習などから形成され人々に浸透、生きる上での強い糧となっている場合もあるものなのではないだろうか。